近所に可愛い犬がいた。
おじいさんが散歩してて、その隣でいつも穏やかに尻尾を降っていた可愛い犬。
おじいさんと犬が同じ振動数って感じで(早速スピってごめんなさい)
そこだけ穏やかなドームに包まれてて
隣に立つとその空間に飲み込まれるようだった。
昨日の夕方汗だくの娘が帰ってきて
その犬が亡くなったことを知った。
急死だったそうだ。
子供達は暇を見つけておじいさんと犬と散歩してたらしい。
昨日は友達一緒に犬の散歩に行こうとおじいさんの家を尋ねたところ、亡くなったと知らされたそうだった。
それに私もショックを受けて落ち込んでいました。
数回しか見たことがない近所の犬なのに
時間を巻き戻したいと思い
それはできないことに対する漠然とした無力感を他人事なのに味わって
自分が持ってる向上心とか
あれがほしいこれがほしいとかそういうのが
バカみたいに思えて
途方に暮れました。
ヨガ哲学では人間の体は借り物であるという考え方があって。そもそも自分のものじゃない。
借りてるからいつか返す。
そういうつもりで大切に扱い、執着しないでおきましょうって考え方。
それによると心や魂と呼ばれる物と体とセットでこの世に存在していて、亡くなると体は返すわけだけど
借りていたものを返したということになるのだけど
そういう哲学とか精神論とか宗教とかスピリチュアルとか一切無視して
近所の犬が亡くなってしまったことを私は受け入れられない。
死ということが、対象が自分から離れていくこと
離れていくことに対してものすごい寂しさを感じてしまうこと
そういうふうに感じています。
娘と歩いてる時におじいさんと犬にたまたま出会って
犬嫌いだった娘が嬉しそうに犬を撫でていて驚いて
おじいさんに犬の名前を聞いて
近所にこんな犬とおじいさんがいたんだと思い
時々見かけると嬉しくなっていました。
おじいさんは一人暮らしらしいので
おじいさんは寂しいに違いない。
でも私に何かしてあげることはできない。
わざわざ会いに行く間柄でもない。
犬が亡くなったこと思い出したくもないだろうし。忘れる時間も無い位かもしれないけど。
おじいさんの心の平穏を願うことしかできない。
もしかしたらこうして誰にでも自分の知らないところで自分がよく知らない人が、自分の幸せを願っていることって実はあるのかもしれない。
自分にはコントロールできないこと、関与できないことって無数にあると思う。
どうにかしたい、なにかしてあげたいという
謎のおせっかいと出来事を捻じ曲げたいコントロール欲を自覚すると
無力感と共に自分に何かできるという気持ちを手放して
相手の幸せを願うこと位しかできないって思う。
自分に何かできるのは
相手に求められた時
また、その時その求めに応じる力があるか
事によっては責任を持てる器であるか
おじいさんに関してはマジで祈るか願うしか無い。
今日もおじいさんと犬が平穏でありますように。
こうして1日を始めます。
最後まで読んで頂きありがとうございました♪