エーリッヒ・フロムは著書「愛するということ」の中でこう話しています。
不安を和らげる方法としてよく人間が取る手段は、3つある。
①集団への同調
孤立感を克服する最も一般的は方法は集団への同調である。
これについて、集団への同調による一体感は、強烈でなく、穏やかで惰性的。という理由で否定もしている。
集団とは、趣味のコミュニティ、地域、学校、会社に馴染むことなどがそうだろうか。
①に加えて②仕事も娯楽も型通りのものになっていること
あらかじめ決められた仕事を、決められたペース、決められたやり方でこなしていく。おまけに快活さ、寛容、信頼性、野心、誰とでも衝突せずにうまくやっていく能力など、感情面ですらあらかじめ決められているようであることををこなすことで一体感を得られる。
確かに、これらをこなしている時は安心感があるし、ADHDの特性を持つものとしてはこれらをこなすことができないこと、また、できそうにないと感じることで不安に陥る。
③創造的活動
大工がテーブルを作る、農民が穀物を育てる、画家が絵を描くなど。
人間は創造の過程で世界と一体化する。生産的な仕事、つまり自分で計画し、生産し、自分の目で仕事の結果を見るような仕事のみであるが、これらは同調以上の一体感を得られる。
職業でものづくりをしている友人達をみても、趣味でものづくりをしている人を見ても、彼らからは孤独を感じることはない。(ひとりだけで仕事をしていても幸せそうみたいな感じかな?内心は知らんけど、完全に個人的な感想です)
しかしフロムはこの一体感については、人間同士の一体感ではないとしている。
孤独から生じる不安を和らげる方法として①②③をあげた上でそれらを部分的に否定し、完全な答えを「人間同士の一体化、他者との融合すなわち愛」としている。
他者との融合すなわち愛とはどういった意味であろうか。
ここでオランダの哲学者スピノザの例を用いて、愛は行動であると説いている。愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。その中に「落ちる」ものではなく「みずから踏み込む」ものであり、わかりやすくいうと、愛とはもらうことではなく、与えることだと。
ここで「与える」という言葉について=犠牲にするといったイメージが湧く場合は「受取、利用し、貯め込む」段階から脱していないそうだ。こうなると、与えても見返りがないという感覚に陥る。非生産的な性格の人は、与えることは貧しくなることだと感じる。
では生産的な性格の人にとっての与えるとはどういった意味を持つのか。
与えることは、自分の持てる力のもっとも高度な表現であるとする。与えるという行為を通して、自分の持てる力と豊かさを実感すし、その生命力の高さと能力の高さに喜びを覚えるのだそうだ。
人は与えるということで愛を表現し、与えるということで豊かさを実感する。貧困は人を卑屈にするが、貧困生活が辛いだけでなく、与える喜びが奪われるからでもあると。
なんだかわかる気がします。
無力だなって思うと惨めな気持ちになるし、何もしてあげられない時って、相手を思っていても愛を与えられてない気がします。
長くなりますので、一旦この辺で。続きはまた明日アップします。
良かったら読んでやってください♪
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